こんにちは、夜桜です!
三国志で最も有名な人物、『曹操』。
三国志をあまり知らない人でも曹操の名前は聞いたことがあるのではないでしょうか。
劉備の敵役として描かれることが多い曹操ですが、実際どのような人物だったのでしょうか?
今回は魏の象徴『曹操』について詳しく解説していきたいと思います。
目次
三国志の曹操の基本情報
姓名 :曹操(そうそう)
字 :孟徳(もうとく)
生没年:155 ~ 220年
所属 :魏
若い時から機知や権謀に富んでいたが、品性や素行が悪かったことから世間からの評価は低かったです。
曹操は宦官(去勢され皇后や工程の世話をする職。世間からは忌み嫌われる存在であった)の孫であり、幼少の頃からそのことを馬鹿にされて育ちました。
そのような経緯から、着々と部下を増やしていく中、家柄や性格を問わずに才能がある人物を重要な職に付けていきました。
その為、曹操には忠臣が多かったと言われています。
曹操は常に勉学を怠らず、詩や政治面だけでなく、武術にも精通していました。
多くの戦争を経験した曹操の生涯戦績は8割を超えるそうです。時代を超えて曹操が評価されるのは多彩な才能を持ち、多くの有能な武将を率い、輝かしい戦績を残したからでしょう。
曹操の息子達
曹操には25人もの息子がいます。その中でも知名度の高い息子5人について解説します。
曹操を守るためにこの世を去った、曹昂
曹昂(そうこう)と読みます。
197年に宛城(えんじょう)の戦いというものがあり、曹操はその際に夜襲を受けました。曹昂は父親である曹操を逃がす為、馬を譲り曹操は逃げ延びることができましたが、曹昂は盾となって無数の矢を受け、この世を去りました。
魏の初代皇帝、曹丕
曹丕は曹操の息子の中で最も有名でしょう。
曹丕は魏の初代皇帝になりました。しかし、曹丕は曹操に比べて不評が目立ちます。その理由としては曹操の時代から長きに渡り仕えていた武将を怒らせたり、仲間に対して恨みを持ち、死刑に追い込むようなことを起こしたり等、いろいろ問題となる行動を取っていたようです。
詩人として有名、曹植
今でも中国では有名な文学者として知らせているそうです。
詩を詠むことが好きで、同じ趣味の曹操から可愛がられていました。
曹植は後継者争いで曹丕と争いましたが後継者争いに敗れました。
曹丕が魏の初代皇帝となった後、領地を転々を移されるという不遇な人生を歩みました。
武勇に優れた、曹彰
曹操の息子の中でも指折りの武勇に優れた武将でした。
黄色い髭を生やしており、「黄鬚児(こうしゅじ)」と呼ばれていました。
武勇による数々の実績を残していましたが、曹丕が初代皇帝になると冷遇されるようになりました。
曹操の息子の中で最も優れた人物、曹沖
曹沖はわずか13歳でこの世を去りました。知る人と知る才能の持ち主で、身内に対して厳しい曹丕ですら曹沖のことを認めていたそうです。
学問が好きで曹操にとても可愛がられていました。
曹操の名言集
曹操は現代の人々の心に残る名言を数多く残しています。
有名な名言の一部を下記に記載します。
功なき臣を官せず、戦なき士を賞せず
賢明な君主は功績のない臣下は重職として登用せず、戦わない兵士を讃えたりしないという意味だと思われます。
有能な武将を重宝する曹操らしい名言ですね。
快楽に溺れる人生ほど、詰らない人生はない
快楽に溺れてしまう人間は普通でその様な人間は詰まらないという意味と捉えることができます。
これまた有能な武将を重宝する曹操らしい名言です。
失敗の責任は主君に、成功の功績は家臣に
言葉通りの意味だと思います。現代でも理想の上司と言えるでしょう。
魏の象徴、曹操
曹操について解説しましたがいかがでしたか。
曹操は身分を問わず有能な武将を重宝しました。
その結果、彼の元には多くの忠臣が集まり、魏・呉・蜀の中で最も魏を大国にすることができたのでしょう。
三国志を題材とした創作物では、近年曹操が主役となる作品が増えていることから、三国志好きの皆さんの中でも曹操に魅力を感じる人が多いということだと思います。
正に曹操は三国志を代表する人物と言えるでしょう。
曹操が最も信頼した人物、夏侯惇についてはこちらの記事をご覧ください。
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